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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の公開1周年を記念して、短くつたないですが久々の短編を執筆しました。
幾たびもの”夢”を重ね続けたシンジが、最後につかんだ幸せの記録を綴りました。
お楽しみい...
「ねぇ、シンジ。アンタどこの高校行こうと思ってんの?」
呼びかけられて顔を上げると、アスカが立っていた。彼女の手には志望調査と書かれた紙が握られていた。手に持っていた文庫本に栞を挟んで話を聞く姿勢を見せる。そういえば、一昨日ぐらいに志望調査票なる物が配られたことを思い出した。加持先生は産休に入っているから、提出先が誰になるかはわからないけれど、期限はもうすぐだったはずだ。
「……まだ決めてないや。受験は来年でしょ? 全然考えてないよ」
「アンタねぇ、そんなこと言ってるうちに一年なんてあっという間にすぎてくのよ?」
突きつけられた人差し指をつまんで横にそらし、彼女の目をじっと見据えた。アスカの目力に負けそうになるけれど、ぐっとこらえて言い返した。
「そんなこと言ったって、明日のことすら僕らにはわからないんだ。そんな遠くのことなんて余計に考えたくないよ」
そういうと、アスカは呆れた様子を隠さずに腰に手を当てて僕を見下ろしてくる。またくどくどした説教が始まるのかと想ってげんなりしたけれど、意外にあっさりと小言を言われるだけで済んだ。
「アンタのそーいう暗いところ、どうにかならないもんかしらね」
「そういうアスカはどうなんだよ、どこか行きたい高校でもあるの?」
「……別に。あたしならどこだって受かるもん。アンタと同じところにしようと思って聞いただけよ」
「……」
そういったアスカの白い頬が桃色に色づいていて。その意味を理解できるほど僕はまだオトナじゃなかったし、その言葉に込められた心に一歩踏み入ることも出来なかった。それって、どういう意味? と、たった一言聞くことにさえ臆病になっていたんだろう。
昔からずっと、夢に見ることがある。はっきりと記憶していないけれど、自分と身の回りの大切な人たちの夢。その夢は今生きている僕の世界とはまったく別の世界で、まったく違う背景を持ち、同じ舞台で生きている。あまりにリアルで、だからこそ自分の生きる世界がわからなくなりそうになる。
始まりは決まって、公衆電話の前からだった。それ以前の記憶はないし、なんでそこに立っているかも最初はわからない。
次は大きな金属製のケージの場面に移る。赤い液体で満たされたケージに、紫色の巨人が浮かんでいて、それに乗り込んで戦うことになる。別に自分の体を傷つけられるわけじゃないのに、とても痛くて苦しくて。でも、この時点で夢から覚めることはめったにない。
その先はいくつかのパターンがあるけれど……あまり主出したくはないんだ。そのどれもが幸せな結末にはならないから。
28歳を超えるまで、ずっと同じ夢を。そんな苦しい夢を見ていた。
最後にその夢を見た日は今でも覚えている。旅行で山口県に行っていた時に、電車の中でうたた寝しているときだった。その時の記憶は、切なくて、苦しくて、それでも長い時間をかけてやっとたどり着いた未来に繋がる細い糸だった。
駅のホームに降りたときに感じた、春先のまだいくらか冷たい風と乾いた木と土の懐かしい香りを最後に、僕はその夢を見なくなった。それでもずっと覚えてるってことは、きっと僕の人生の中で大事な夢だったんだと思う。
「碇くんは、どこを目指すつもりなの?」
「……え?」
隣の席の綾波が、こちらを向いて聞いてきた。
「大学。受験まであと一年よ」
どこかデジャビュを感じる質問だった。その質問に対して答えに詰まるのもまた僕にとっては既視感のある光景だった。アスカが横から口を挟んでくる。
「こいつがそんなこと考えてるわけ無いでしょ、中学の時だって考えてなかったんだから」
「そんな言い方するなよな」
「図星のくせに」
「うっ……」
実際痛いところを突かれてしまって、僕はそれ以上何も言いかせなくて唸るしかなかった。
「……そういうアスカだって、僕が進路決めるまで何も決めなかったじゃないか」
その言葉にアスカは少し驚いたような顔をしたあと、無表情にしかし残酷さのかけらもない優しい声をして言った。
「当たり前じゃない。もともとアンタと同じところに行くつもりだったんだもの。大学だって同じところにするわ」
「え?」
「……」
思いも落よらなかった言葉に、僕も綾波も固まってしまった。今、アスカがなんと言ったのか、その言葉の意味、彼女の想いを。邪推してしまう僕と、淡い期待を否定する僕がいて。綾波にしても、複雑な表情を隠そうともせずにアスカを睨みつけていた。
「なんやあいつら」
「あいかわらず、いやぁ〜んな感じ、ってやつだな」
「いいじゃない。アスカも一生懸命なんだし」
真っ赤になったまま口をパクパクさせて僕を、トウジとケンスケ、そして委員長が見ていた。幼い頃からずっと変わらない僕たちのそんな不思議すぎる駆け引きを眺めては、半分呆れていたんだ。そんなことに気づくのも、まだまだずっと先の話。
ケンスケとヒカリは、教室の窓から外を眺めていた。
「どしたの?」
「あれ、碇くんじゃない?」
校門前の道には、シンジが立っていた。その隣に、知らない少年もいる。
「ほんとだ。もう一人は誰だ?」
シンジたちはなにか言い争ったあと、ヒカリとケンスケの視線に気がついてハットを息を呑み、足早に去っていった。
「ありゃ、行っちゃった。変なの」
ケンスケが不思議そうにシンジの後ろ姿を見つめていると、隣でヒカリは複雑そうな表情を浮かべた。
「……よかった……」
「え?」
「だって。碇くんがこの教室に来ても」
その瞳に映る悲しみと怒りを、ケンスケは感じ取った。
「もう元通りの友達じゃいられない気がするもの……」
あまりに素直な言葉に、あとに何はも言葉は残らなかった。
戦場に血が迸る。醜く広がった唇をだらしなく開けた白い悪魔がアスカを襲い、彼女は必死にそれを斬り伏せた。
「はぁっ! ハァッ!」
活動限界がどんどん近づいてくる。機体から伝わる痛みと視界の右端に移りこむタイムリミットが、アスカの心の端を火で炙ってきていた。脂汗がL.C.Lに溶けだし、全身の毛が逆立っていく。
ついにアスカは量産型に捕らえられた。内部電源は完全に消費し、どんなインターフェースも入力を受け付けない。
「イヤッ! 動いて! 動いてェェェェッ!!!」
弐号機を囲う量産型が両刃剣を振りかざしたその時。奴らの腕を切り飛ばして弐号機をかばうように紫の巨人が立ちはだかった。
「シンジ……!?」
「ごめん、アスカ。遅くなって……」
シンジは芯のある声で答え、目の前の脅威と対峙する。S^2機関を搭載し、無尽蔵なエネルギーを持って破損をものともせず立ち上がる量産型をにらみつけ、奪った武器を握り直した。
「……ッ。なによ! 今頃来ておいしいとこだけ持っていくつもり!?」
こんな時でもアスカの口から出てくるのは憎まれ口だったが、シンジはそれを受け止める強さを手に入れていた。
「いや。そんなつもりはないよ」
シンジは掌にある十字架の感触をもう一度確かめた。
「約束したんだ、ミサトさんと」
白い連中が身を低くして動き出す。絶対に通さない、強い覚悟を胸にシンジは叫ぶ。
「君を助けるって……!」
「結局アンタとは大学までずっと一緒ね」
二人ともスーツに身を包んで、桜の舞う道を歩く。並んでいる桜の木を見上げながらアスカはぽつりと呟いた。その言葉にどんな感情を仕込んだのか僕にはわからなかったけれど、僕は自分の感情がはっきりとし始めていた。
「アスカが選んだんだ。やろうと思えば、僕なんかよりもっと成績は上げられたんだろ?」
「アンタがそんなに私を買ってくれてるとはね」
「でも事実だ」
「……そ」
お互いの顔はまったく見ずに、まっすぐ前を見て歩く。入学式の会場に向かう道は、段々と混んできた。掘にかけられた橋を渡って門をくぐると、武道館が姿を表した。そこら中に同じような大学生がスーツを着ているさまは圧巻だった。
会場に入って二人並んで席を取る。早めについたから、余裕をもって式に臨めそうだった。念のためと思って、トイレの位置を探した。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるよ」
「ん、わかったわ」
トイレから戻ってくると、アスカの隣に誰かがいた。
「ねぇ、君、同じ学部でしょ? この後一緒に飲みに行こうよ」
「……結構です。というかあなたまだ成人してないんじゃないですか?」
「いいじゃんいいじゃん、バレやしないって」
軽薄なその男に少し機嫌が悪くのを、自分でもわかっていた。一つ深呼吸して歩いていく。
「……あの、どちら様ですか?」
出来る限り冷静になったつもりだったけれど、どうやら声にかなりいらだちが現れてしまっていたみたいで、その人は怯えた顔をしてアスカの隣から離れていく。
「あ、いやその……」
「何でもないならどっか行ってください」
そういうと、何とも言えない顔をして彼はどこかへ行った。
「入学式からあんなのに絡まれてるようじゃ、大学始まったら引く手あまたになっちゃうわね」
隣に座った僕に、アスカは満足そうに言ってきた。冗談じゃない。
「……なるべく僕の目の届く範囲にいてよね」
そういってアスカの顔を覗くと、あの日と同じようにその白い肌は薄く桃のように色づいていた。
赤い海のほとりに、二つの体が横たわっている。人が人であるために備えられた原罪の海は不気味さと同時に温かい美しさも持ち合わせていた。
さざ波の音しか聞こえなかった世界に、水の跳ねる音が鳴った。残されたわずかな体力を使ってシンジが振り向くと、蒼銀の髪の少女がいたような気がしたが、すぐに視界から彼女は去っていった。
「……」
体を起こし、隣に横たわる少女を見下ろす。どうせ死んでしまうのなら、いっそこの手で。苦しんでしまう前に、安らかに。アスカにまたがり、首に手をかけ、ゆっくりと締め付けていく。少女の体が酸素を求めて少しずつ震えだすのを感じながら、無表情にシンジは力を込め続けた。
そんなシンジの様子を見ながら、アスカはゆっくりと頬を撫ぜた。彼らは互いの存在を受け入れた。
「気持ち悪い」
「アンタ単位どうだったの?」
「あと卒業研究だけ」
大学3年生の三月。僕らの元に成績表の通知がやってきた。僕が住む部屋で成績表を開いて見ることは大学に入ってからの恒例で、今回も二人で同時にpdfを開いた。僕もアスカも順調に単位も取得し、ありがたいことに早めに内定をもらっていたのでしばらくはゆっくり過ごせそうだった。
「アンタ、どこから内定貰ってるんだっけ?」
「ネルフってとこ。アスカはヴィレだろ?」
「お互いそれなりにいいところにたどり着けたみたいね」
そういうアスカの顔は、どこか寂しげだった。机の上に置かれた手がすっとこちらに伸びてくる。
「アンタはアタシがいないとダメだとずっと思ってたけど、もうそんな弱いシンジじゃないのよね」
「アスカ……?」
頬を撫ぜるその手が、あまりにあの日の夢に似ていて。
「ねぇ、シンジ。アタシ、シンジのことが好き」
彼女のその手をそっと取って引き寄せて、僕はアスカを抱きしめた。耳元でささやいた言葉はもう覚えていないけれど、その代わり新しい絆が出来たんだ。
駅のホームでは、電車の到着を告げるメロディが流れている。ベンチで目を覚ましたシンジは、ただ向かいのホームを眺めていた。電車がゆっくりと入ってきて、視界を遮る。
じっとしていると、後ろから誰かが目を覆ってきた。柔らかいセーターの裾がこめかみに当たる。
「だ~れだ?」
「胸の大きいイイ女」
「ご名答!」
手を外したマリがベンチの前に回り込んできた。シンジの首筋を嗅ぐ。
「相変わらずいいにおい。……オトナの香りってやつ?」
そういってメガネを下にずらし、マリはシンジの目を覗き込んだ。そのメガネを正しい位置に戻してやって、シンジは切り返した。
「君こそ相変わらず、かわいいよ」
「いっぱしの口を聞くようになっちって」
その言葉に苦笑いしながら、マリはシンジの首に結ばれたチョーカーを外した。手を差し伸べて、未来へと誘う。
「さぁ、行こう。シンジくん」
その手を取って、さらにマリを追い越すようにしてシンジは一歩踏み出した。
「うん。行こう!」
「アスカ、話があるんだ」
「なに?」
アスカの家の近くの喫茶店に、アスカを呼び出した。外はみぞれが降っている。凍えるような空気はカフェの暖房にかき消されていて、窓は白く曇っていた。
「これを、受け取ってほしい」
顔が赤くなっているのがまるわかりだ。皮膚がかなり熱い。アスカの前に、小さな箱を置いた。
「……アンタ、わかりやすすぎ」
「ウン、知ってる」
「アタシが断ると思ってる?」
「ううん、きっと受け取ってくれるって思ってる」
その言葉に、アスカは顔を赤くした。その反応も、わかってる。
「はぁ……アンタ、ずるくない?」
「そうかも。でも、ただの臆病のままじゃ誰も幸せにならないって、わかったんだ」
「そう……」
そういってアスカは、左手を差し出した。
「アンタが嵌めてよ」
「ん」
箱を開けて、数か月分の給料の重みをそっととる。アスカの左手の薬指に、その指輪はぴったりとはまった。指輪を見つめて、左手を包むように胸の前で握りこみ、アスカは一筋涙を流して言った。
「……不束者ですが、よろしくお願いします」
「ありがとう」