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久しぶりに投稿します。
やることが多すぎてなかなかこっちに力を割り振れませんでしたが、つらすぎて我慢しきれずに書きなぐりました。
ご査収ください。
ではm(__)m
第三新東京では残暑が猛威を振るっている。一時期の蒸し風呂に押し込められたような熱気は収まったが、まだまだ日差しも強くコンクリートで舗装された道は殺人的な熱波を放っていた。そんなすさまじい熱気で発生した蜃気楼に揺られて、一組の男女が歩いている。彼らの耳には、騒がしい蝉の声が突き刺さっていた。
「うるさいわねぇ……」
「ここは夏だしね……」
会話は長く続かない。灼けたアスファルトの上にぽたぽたと垂れる汗の跡は、すぐに蒸発して湿度の上昇に貢献し始めた。
「あっついわね……」
「まぁ、夏だし……」
長く続く幹線道路は、歩を進めるに連れてひび割れ焼けただれたように黒くなっていく。隙間から生えた雑草はところどころ胸の高さまで育っていて、どんどん見通しは悪くなっていった。歩く道も先が見えず、ふくらはぎを撫でる雑草も数が増えていき、湿気もひどくなっていく。二人の手に握られた花束は、既にしおれてしまっていた。
かつてネルフ本部があった場所は、大きな湖になっている。大海原が既に青さを取り戻し浄化されていたが、相変わらずここはまだ血の色をとどめたままだった。土は湖に近づくにつれてより細かく砕け砂へと変化し、一切の植物は消え失せている。底を覗こうとすれば、むしろ黒と言っていいほどの深い赤がこちらを覗き返してきているようで、二人はあまり見ようとはしなかった。
「まだ赤いわね」
「……」
シンジは何も答えない。水の底を覗かないように、けれど確かに血を直視しながら、二人は湖のほとりに佇んだ。生温い風が頬を撫で、髪の間をゆったりとくぐり抜けていく。わずかな湿気の中に生臭さを感じて、アスカは顔をしかめた。
「さ、いきましょ」
「うん」
二人は砂浜を湖に沿って歩いた。わずかに湿った砂の上についた足跡は、すぐにさざ波に消されていく。夏の日差しが二人の影すら消し去り、彼らがそこにいた痕跡は一瞬の内に消えてしまった。
砂浜の先には無数の十字架が立てられていた。墓石はない。十字架自体も、流木や廃材を使った粗末なものだった。粗末な墓場を通り抜けた先に、二人が目指す場所があった。
「ミサト、今年も来てやったわよ」
墓場の外れに一本だけ、唯一装飾らしい、特徴的なペンダントが打ち付けられた十字架が立っていた。葛城ミサトの遺骸むくろがその下に眠っているわけではない。ただ、すべてが終わりを迎え、同時にはじまりとなったあの日に、シンジが立てた墓標であるにすぎない。それでも、二人にとって、ここが心通わせた姉の墓だった。
「僕ら、来年の三月で大学を卒業することになりました。就職先も決まったし。ちゃんと生きて行けそうです」
「アタシはともかく、シンジも早めに決まったしね」
「まるで僕が頼りないみたいじゃんか」
「あら、なんか間違ってたかしら?」
「はいはい」
二人でそっと手をあわせる。十字架の下に置かれたしなびた花束が風に揺られている。静寂が三人の空間を満たしていた。
「さ、いきましょっか」
「うん」
立ち上がったアスカが、シンジを促す。二人は元来た道を歩き出し、墓地を後にした。
夏の終わりが、近づいていた。
「へぇ、結構いいところじゃない」
鈍行電車に揺られてたどり着いたのは、山奥の温泉旅館だった。チェックインを済ませて部屋に入ると、穏やかな緑の景色が映えている。アスカは荷物をおき、仰向けに大の字になって畳の上に寝転がった。
「あ~、いいわねこれ。温泉なんていつぶりかしら」
「アスカ、せめてコートぐらい脱ごうよ」
「めーんどーくさーい」
自分のコートを脱いでハンガーにかけながらシンジが言うと、アスカはぐるりとうつぶせになって駄々をこねた。
「ほら、僕がかけとくから脱ぎなよ」
「いやだ、寒い」
そういって彼女はぎゅっとコートを抱きしめる。シンジは苦笑いしながら両手を上げてひらひらと振って見せた。
「はぁ……わかったよ、その代わり脱ぎ散らかさないでね?」
「は~い」
間延びした返事をして、アスカは畳の上に寝ながら器用にコートを脱いでいく。袖を抜いたそれを掛け布団のように被って、彼女は畳の匂いを嗅いだ。
「畳っていいわね、干し草の匂い」
「イグサっていうんだ、畳に使われてる植物。僕もその匂い、好きだよ」
そういってアスカの隣にシンジが腰かける。コートの襟から覗くアスカの白い頬に手を当てて撫でると、彼女は一瞬顔をしかめた。
「冷たい」
柔らかい頬を撫でるその手に、自分の手を重ねて柔らかく握る。アスカは自分から、その〝冷たい〟手を抱き寄せた。
「ごめん」
「いい、あやまんないで」
そういってアスカが体を起こすと、彼女の右頬には畳の跡がくっきりと張り付いていた。
「っくく、あは、アスカ、それ」
「?」
アスカは頭に疑問符を浮かべて少し考えを巡らせ、すぐに慌てた様子で立ち上がり鏡を確認する。その直後、部屋には大きな悲鳴が上がったという。
「もうだいぶ消えてきたね」
「……むぅ」
アスカの頬に残った畳の跡は、少しずつ消えて今ではもう全く見えなくなっている。それでも彼女は不機嫌なままで今も温泉に浸かりながらそのポーズを崩さない。シンジの腕の中で体育座りのまま、もうかれこれ二〇分にもなろうとしていた。
「そろそろ上がろうよ?」
「……」
「ねぇ、アスカ?」
アスカの様子がおかしいことに気が付いたシンジは、ぐっと彼女の肩を引っ張って顔を覗き込む。そこには、明らかにのぼせ上って紅潮したアスカの顔があった。その目は焦点がうまくあっておらず、体から完全に力が抜けている。シンジは呆れて大きな溜息をつきながら、ぐでぐでになったアスカのサルベージ作業を始めた。
「もー……ほら、上がるよ? 足元気を付けてね」
「んー」
「んー、じゃないの。ほら、これ以上ここにいると本当にあぶないよ?」
脇の下から手を通して、ふらつく体を支えながら何とか脱衣所まで彼女を引きずって歩いた。空気が脱衣所までのわずかな移動の瞬間も、冬のひんやりとした空気は容赦なく襲ってくる。急激な寒暖の差は、のぼせていたアスカの意識をいくらか冷静にさせたようだった。バスタオルでそっとアスカの体を拭いていると、彼女はその手を眺め手の甲に自分の右手を重ねながら呟いた。
「シンジ、ありがと」
「どういたしまして。ほら、浴衣の袖通すから、ちょっと腕を上げて」
「ん。分かった」
シンジは慣れた手つきで浴衣の帯を締めていく。洗面台の前の椅子にアスカを座らせ、これまた慣れた手つきで彼女の金髪にドライヤーを掛けていった。アスカは心地よさそうに目を閉じてされるがままに身をゆだねている。温泉の水音を掻き消すようなドライヤーの騒音が、二人の間に鳴っていた。
「……はい、ちゃんと乾いたよ」
シンジはさらさらとアスカの髪に手を入れて、根元まで乾いたかを確認してからドライヤーの電源を切る。かちり、と音を立ててドライヤーはその仕事を終えた。電源コードを巻き取りながら、シンジはアスカに言った。
「湯冷めしないように、後でちゃんと袢纏を着なきゃダメだよ? せっかく芯まであったまったんだからさ」
そういうって振り返ろうとすると、アスカの腕がシンジの腰に巻きついてその動きを止めてしまう。彼女の顔は背中に押し付けられてシンジからは見えなかった。
「アスカ?」
少し無理矢理に体をひねって、シンジはアスカの頭をなでる。シンジの少しごつごつとした手が頭上を往復するのに合わせて、アスカはぐりぐりと鼻を押し付けた。彼は手に持っていたドライヤーを籠に戻して、両手を使って彼女の肩をつかんでぐいっと引き離し、視線をあわせるようにかがんで正面から抱きしめる。
「どうしたの?」
「……ううん。何でもない。ごはん食べに行きましょ、お腹減ったわ」
力の抜けたアスカのささやき声が、シンジの耳元で小さく鳴る。一瞬詰まった言葉の裏側に、あえて触れないようにして、シンジは彼女の肩を支えながら立ち上がった。荷物を左肩に背負い、まだ湯気の香る温かいアスカの体を右に支えながら、自分たちの部屋へと歩き出す。
「お腹が減ったなら、外に食べに行こうか。この近くにおいしい定食屋があるらしいんだ。部屋に戻って準備してから、行こう」
そういって歩くシンジに連れられて、アスカは腕の中でこくりと頷いた。
「結構おいしかったわね」
「またここにきたら、あのお店にいこっか」
「うん」
夜の街はとても寒く、暗い。食事処や土産物店の明かりだけが足元を照らし、商店街を過ぎてしまえばそれすらもなく点々とした街灯があるだけだった。二人はそれぞれの手にコンビニで買った缶ビールをぶら下げ、腕を組んでゆっくりと宿までの道を歩いて行った。
「そういえばさ、いつだったっけ。ミサトさんやみんなと一緒に温泉に言ったことがあったよね」
「あったわねぇ、そんなこと」
懐かしい夕陽の光景が二人の頭に浮かび上がる。思い返せばあの夏の日々から一体どれほどの月日が過ぎ去ったのか。
「あの時、仕切りの向こうでミサトさんと話してたじゃない。あれ、聞こえないふりしてたけ……いた、ちょっと!」
「ふんだ。変態」
「ごめんってば」
せっかく感傷に浸っていたのに、とばかりに顔を膨れさせてアスカは拗ねる。それでも腕を解かないあたり、本当に怒っているわけではないのだろう。
「懐かしいね」
「そう、ね」
そのあとは二人とも何も話さず、宿へ向かう残りの道を歩いて行った。
『サードイパクト発生から今日で10年となりました。世界全体で進められたここまでの復興の道のりを――』
布団の上に座り込んで、二人で並んで缶に口につける。二人の前のテレビは、崩壊した当時の世界と社会からの復興が美しい物語のように語られていた。
「……ミサトさんたち、今年も戻ってこなかったね」
「そうね……」
話す二人の前のテレビは、爆心地からの中継映像が流れ始めた。時の流れが歪み、まだあの夏に囚われている爆心地に向かって、多くの人が手を合わせている。
外の時間軸とは隔絶された、進むことも戻ることも許されない世界。
今はもう、シンジたちしかその姿を知ることが出来ない世界。
今朝訪れたあの場所が、ある意味では二人にとって唯一の心安らげる場所だった。
「あの温泉に行ったとき」
「……うん」
「ミサト、すごい寂しい目をしてた」
そういってアスカは手に持っていた缶をちゃぶ台へ置き、シンジに覆いかぶさる。シンジは押し倒されながら、自分の缶が倒れないように少し遠くにおいた。彼に馬乗りになったアスカは、体を倒して、シンジの左胸に耳をつける。
「きっと、寂しかったのよ。だから、帰ってこない。帰る必要なんて、きっとミサトにはないのよ」
「……」
誰よりも近い鼓動と温もりを強く抱きしめて、アスカは深く息を吸う。
「ね、シンジ」
「なに?」
「アンタは、ずっとずっと、そばにいてくれる?」
彼はそっと、鮮やかな髪を撫でた。
「君が傍にいてくれるなら」