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アスカが病に倒れる。献身的に看病するシンジは、日頃からアスカに持っていた迷いを清算するべく覚悟を決めた。
9/12 追記 ランキングに載りました。ありがとうございました。 [pixiv小説] あなた...
使徒との戦いと、その後の人類補完計画をめぐるネルフと戦略自衛隊、エヴァシリーズとの戦闘を経て、サードインパクトと人類補完計画は失敗に終わった。人類は滅亡の恐怖からひとまず脱出し、そして残されたチルドレンとネルフ職員たちは安息をえた。残念ながら最後まで戦い続けた二人の少年少女の心はえぐり取られてしまったが、ようやく訪れた年齢相応の暮らしが、お互いの心の足りない部分を埋め合わせたのか、いまだに二人はそろって暮らしているようだった。
戦いが終わってからすでに5年が経過した今、戦略自衛隊によるネルフ本部職員の殺戮を公にしないことと引き換えに、ネルフ本部は新しく研究施設として再生、消滅した第三新東京市に代わって松代の第二支部へ本拠地を移している。エヴァをはじめとするオーバーテクノロジーの管理に加えて、SS機関の再現など、その業務は多岐にわたっていた。エヴァが存在しないながらも、かつてのエヴァ搭乗者としてたびたび実験に参加する、という名目のもとでの、シンジとアスカの保護も現在のネルフにとって非常に重要なタスクの一つだ。
ささやかな大人からの気遣いとして、彼ら二人には失われた学習機会が与えられ、自由な外出も認められている。戦術作戦部を率いるミサトが計画した警護計画のもとで、二人は大学一年の夏、念願だった沖縄への旅行を楽しんだ。五年越しの旅行に終始機嫌がよかったアスカと、そのそばでそれを見つめて微笑むシンジは、常夏の島の透き通る青い海とともに、非常に美しく映えていた。
長くも短い一週間の非日常を終えた二人は、久方ぶりのわが家で荷解きをしていた。
「荷解きするのめんどくさいわねぇ」
「仕方ないよ。旅行ってきっとそういうものだよ」
「ほんといやになっちゃう、これさえなければ旅行たくさん行きたいのになぁ」
一週間ともなると、着替えや日用品、持ち帰るお土産などで荷物は多くなる。アスカは目の前に鎮座している大きなスーツケースとボスとバッグを開けるのを渋っていた。当然ながら普段から着る服なども中に入っているため、荷解きしてしまったほうが良いことは理解しているようで、シンジに言われて文句を言いながらもカバンを開け中身を取り出し、選択するものなどに分類していった。
お互いに自分の服の整理を始めたので、しばらく会話が途切れる。シンジはもともと丁寧に片づけるときのことも考えながらカバンに詰めていたため、さして時間もかからずに洗濯機にまとめて必要なものを放り込んだ。作業はそれで終わらず、今度は紙袋からお土産を取り出して冷蔵が必要なもの、常温でよいものを区別してしまっていく。そのころアスカはと言えば、慌てて詰め込んだ衣類のせいでぐちゃぐちゃになっている中身を、ぶつぶつと独り言を吐き出しながら片づけていた。
先に荷物の片づけが終わっていたシンジは、冷凍庫に残っていたちょうど二人分ぐらいのごはんと、沖縄で買ってきた総菜を組み合わせて簡易的な食事を作る。電子レンジにご飯を入れてスイッチを押してから、食器棚から二人分の茶碗を取り出して一応洗っておく。準備をしていると、ようやく荷解きと整理が終わったのかアスカがリビングへとやってきた。手にはいくつかの紙袋が抱えられていて、どれほどお土産を買いこんだのか、そのすべてを想像してシンジは気が遠くなりそうだった。どうやら中身はおつまみのようなもので、豚の耳の軟骨でできているらしい。アスカは袋を開け、食器棚から引っ張りだした平皿にそのおつまみを盛り付けた。お互いに無言で、それぞれの支度を着々と進めるリビングには、穏やかな空気が感じられた。
テーブルに並べられたごはん、沖縄で買ってきた総菜、アスカが自分で食べるために並べたいくつかのおつまみ。旅行明けの食卓にしては、とても充実した内容だった。準備が整った食卓に、同居人を呼ぶためにシンジが顔を上げると、ベランダのドアが開いていて、カーテンが揺れる。どうやらアスカは夜風を浴びに外へ出ているようで、薄暗いリビングの先に見える月明かりに照らされた後姿はとても神々しかった。
シンジはアスカに近づいていく。夕食の準備をしている間にシャワーを浴びてきたのか、アスカの髪は湿り気を帯びている。濡れた髪が月光を吸って艶やかに輝き、高い気温の中で涼やかに流れる夜風に乗って、乾き始めた毛先が柔らかく浮き上がる様は、とても美しかった。声をかけるのも忘れて、シンジはただただ見とれることしかできない。後ろにある気配に気づいた月明かりの女神は、右耳に髪をかけながらゆっくりと振り返った。
「ご飯の準備できた?」
「……うん、できたよ。一緒に食べよう」
「ありがと。……なによ、なんかあったの? そんなぼーっとして」
食事の準備ができたか聞かれたので少し噛みそうになりながら答えると、アスカは首をかしげて不思議そうな顔をしているシンジに聞き返した。
「いや、なんでもないよ。アスカこそ、ベランダに出てどうしたの? そんなに暑かった?」
「別に。ちょっと月をみたかっただけ。いつだったか、ミサトがこんな風にして月を見てたなぁって思っただけ」
そういって再び、アスカは空を見上げ、つられるようにシンジも月明かりの下へ躍り出た。静寂の中、二人見上げた満月は白銀に輝いてとても大きく見え、思わずシンジは、ため息交じりにつぶやいた。
「ねぇ、アスカ。月がきれいだね」
アスカは、月を見上げながらぽつりと、返した。
「そうね。月が、きれいね」
しばらくの間二人で月を見上げてから、電子レンジで温められて盛り付けられたはずの白米は、時間がたって茶碗の中で冷たくなっていた。口に含んで咀嚼すると、いつもより強い歯ごたえを感じる。向かい合って座る二人が静かに箸を動かす音が、しばらくの間ダイニング響いていた。ふとシンジが顔を上げると、アスカの肩に赤くはれた部分があることに気づいた。
「あれアスカ、蚊に刺されたの? そこ」
そう言われて一度シンジの顔を見た後に、自分の肩を見て思い出したかのようにアスカは言った。
「あぁ、これね。二日前の夜に刺されたみたいで、なんかずっと残っちゃってんのよねぇ」
ほんと嫌になっちゃうわね、と少し痒そうにしながら文句を言ったアスカは、それをあまり気に留めずに目の前の食事を平らげることに集中の対象を戻していった。数日前に刺されたからか、跡こそ残っていたもののほとんど痒みはもうないのだろう。嬉々として自らが広げたおつまみに箸を伸ばす姿には、肩を気にする様子はまるで見られなかった。
「特に体調悪くないならいいんだけど。沖縄で蚊に刺されると、病気になったりするらしいから気を付けなよ」
特にそれ以上目立った会話があるわけでもなく、二人はそれぞれ口々に沖縄旅行の感想を話したり、食べたばかりの総菜の批評をしながら、ゆったりとしたペースで食卓に並んだものを食べていく。ゆっくりと、ゆっくりと。今まで二人が積み重ねてきた時間と同じように、少しずつ、少しずつ。やがて全ての食器が空になり、また粛々とそれぞれがそれぞれの役割を果たす。シンジが食器を洗い、アスカがきれいになった皿から水分をふき取る。
赤い海からたった二人だけで還ってきたシンジとアスカは、以来いつだってそうだった。お互いが持っていないものを、お互いが押し付けて、お互いがほしいものを、お互いに補完しあう。しかしそこに愛が実を結ぶことはなく、お互いにもう離れることはできないのに、決定打をお互いに打たなかった。いつか誰かの言った、ヤマアラシのジレンマを、溶け合うほど愛した{憎んだ}二人にもかかわらず、解消できずにいる。
ただ、一歩を踏みだす。互いに打ちあった楔の存在に目を向ける。その少しが、今の二人には、遠かった。
葛城家の朝は早い。中学、高校までの習慣からシンジは今日もきっかり6時には起床し、顔を洗ってから、昨晩、旅行で汚れた大量の衣類をいれた洗濯機を回し始める。洗濯機がうねりを上げて回転を始めたのを確認してから、シンジはダイニングへと向かう。点灯する固定電話のボタンを押すと、家主が疲れ切った声で残したメッセージが再生された。
『もしもし、シンちゃん? 今日はやらなきゃいけないことがたくさんあるからこっちに泊まってくわね。遅くなるかもしれないけど、晩御飯までには帰れるとおもうわ。それじゃ、おやすみなさい』
おやすみなさい、にかかるように大きなあくびが重なっていた。心の中で、いつもありがとうございます、と呟いた。人類補完計画の失敗以来、青春を奪われた子供たちのために大人たちが積み上げた努力をシンジとアスカが知らないはずはなかった。大混乱に陥った世界で、ただ二人残された子供たち。混沌とした社会の中でもはや情報にブレーキをかけることはできなかった。〝社会のため〟という主題があやふやで結果として対象が傷つくことをいとわない、穢れきった見せかけの正義感をかざしたマスコミ、責任という所在のあやふやなナイフをその身から遠ざけたい大人。世の中の底知れぬ悪意から、ずっと二人を守ってきてくれた。生活の端々に感じる平和に、感謝の念は尽きなかった。
ありがたさを胸にメッセージを終了させようとボタンに手をかけたとき、ミサトとは違う、低い声が混じった。
『葛城。早く行こう、りっちゃんも待ってる』
『はいはい、わかったわよ…あっ、ちょっと、ダメッ……んむぅ……』
シンジは驚いてボタンから手を離すと、しばらくの間わずかな吐息と水音が続いた後、今度は加持の声が聞こえてきた。
『ん、まだメッセージ切ってないじゃないか。シンジくん、葛城のことは任せてくれ。それじゃ』
突然の闖入者の搭乗にあっけにとられたままメッセージは終了し、固定電話からは無機質な通知音が流れ電話が届いた時間を告げる。あとに残されたシンジが何とも言えない顔で電話から手を放して振り返ると、同じく何とも言えない顔をしたアスカがぽつりとため息とともにこぼした。
「……フケツ」
部屋中に味噌汁のいいにおいが立ち込める。この家の食卓をシンジが全て仕切るようになったのはいつごろからだったか、当初はミサトも慣れないながらも手伝おうとしたし、アスカも興味をもって取り組もうとしていたが、自分たちよりも手際よくおいしい料理を作ってくれるシンジがいることで、徐々にそういった行動は減っていった。しばらくすると洗濯機が唸り声を止めて、軽快な電子音を響かせる。プログラムされた通り、洗濯機はその役割を乾燥機へと変え、再びゴウンゴウンと音を立てて回り始めた。その様子を見ても寝ぼけ眼のアスカがテレビを見ているだけで何も動こうとしないのは、この家では当たり前の情景で、シンジも咎めることはない。むしろ怒ることすらせずに、朝食の準備ができたことをアスカに伝えようとコンロの火を止めて振り返った。リビングでニュースを眺めているアスカの後頭部は、まだ眠いのかふらふらと揺れている。
昨日片づけた食器を二人分、食器棚から取り出す。ベランダから差し込む日差しによって満たされた明るさを使って、陶器の皿はほんの少し光を反射させた。一瞬移りこんだ男の顔に、かつて見た父の面影をほんの少しだけ感じてシンジは顔をしかめたが、朝食の準備は確実に進められていく。
「アスカ、朝ごはんできたよ」
シンジはそういってから食器の上に出来立ての朝食をよそっていく。温かい湯気を立てている味噌汁と、炊き立ての白米が葛城家の定番セットで、今日はそこにサラダと目玉焼きが添えられていた。きっちり二人分が完全に用意されたところで、シンジが顔を上げると、いつもなら寝ぼけながらも食卓についているはずのアスカは、まだリビングのテレビの前でぐったりと横になっていた。シンジはそばによってアスカの背中側から肩をゆすって声をかける。
「アスカ、大丈夫? 気分悪い?」
かけられた言葉を理解しきれないのか、眼をこすりながら小さく甘えるように声を出し、体を丸めていやいやと首を左右に振った。
「んんー」
「ほら、体起こして」
体を起こすように呼びかけても、アスカはまったく自発的に動こうとする気配を見せなかった。シンジは無理やり起こそうとはせず、アスカを膝枕してからそのおでこに右手を当てた。手のひらから伝わる熱は高く、アスカが体調を崩していることは明らかだった。
「熱が出てる……。アスカ、昨日寝る前にちゃんとクーラー消した?」
アスカは小さく縦に首を振る。そのまままた小さくうなりながら、シンジのほうへ寝返りを打ち、体を巻き付けてぐりぐりと顔を押し付け始めた。
「あぁ、こらこら、まったく……。しょうがない、今日は寝てたほうがいいよ。食べやすいようにおかゆとか作っておくから、先に部屋へ戻ってて」
そういってシンジは一度アスカを引きはがして床に寝かせる。ぼーっとうつろな目でシンジを眺めるアスカの膝の裏と肩の下に手をいれて、シンジは立ち上がった。年齢とともに少しずつ開き始めた身長差は既に15cmほどになっており、両腕で持ち上げた彼女の体はシンジにとって非常に軽く華奢に感じられて、その事実に、シンジはなぜか感慨深さを覚えた。持ち上げられたアスカはと言えば、何をされているのかまるで分っていないような表情で、相変わらずぼーっとシンジの顔を見ていた。しばらくお互いに見つめ合っていたが、先にシンジが我に返ってアスカに話しかける。
「アスカ、今日は寝てたほうがいいよ。朝ごはんも僕が部屋まで持ってくから」
「?」
そういわれてもアスカはわかっているのかいないのか、変わらずにシンジの顔を見続けていた。別に返事を待つ必要もない、そう思ってシンジはそのままアスカの部屋へと足を進めた。
アスカの部屋に荷物は少ない。少ない、と言ってもドイツからやってきた直後の荷物と比べればの話であって、人並みに服や本であったり生活必需品はそろっている。しかし、それも徐々に減ってきて、洋服なども本当に気に入った、自分に似合っていると判断したもの以外はほとんどしまわれているか既に彼女自身によって捨てられた。少しずつ寂しさを増す彼女の部屋に気づかないほどシンジも鈍感ではなくなったが、かといってかける言葉を見つけられるほど成長したわけではなかった。
時と反比例するように殺風景な部屋の扉を足で開ける。その場にあった座布団を枕代わりに、シンジはアスカを一度寝かせると、部屋の一角を占拠するベッドからシーツをはぎ取る。つい先ほどまでアスカがその身を横たえて眠っていたベッドはまだほんのりと温かいが、アスカが消し忘れたクーラーと寝汗によってシーツは嫌な冷たさも持っていた。洗濯機はまだ感想の最中でまだこのシーツを洗うことはできない。シンジは少女が苦しみ泳いだシーツを手早くたたんでベッドのわきに置いた。これ以上アスカの体調が悪くならないように、エアコンの温度を少し高めに調節しておく。そのまま、押し入れにしまってある予備のシーツを取り出してベッドに敷き、アスカをその上へと寝かせた。ガーゼ素材の夏用寝具をかけた。その様子を終始アスカはぼーっと眺めているだけであった。
「まだ寒いと思うけど、クーラーはとりあえず温度調節したから。朝ごはんは食べやすいように作り直すね」
シンジはベッドのわきに膝をついて、アスカの手を握って眼を合わせてアスカに言った。アスカが小さくこくんと頷いて、左手を握るシンジの右手に自分の手を重ねて、大人に近づくにつれて骨ばってきたその手の甲をなぜた。体温が上昇していることで思考が回らないアスカの手は、まるで新生児が親の指をつかむように、ゆっくりとシンジの手をなで続けた。まるでシンジにすがるかのように、その力は徐々に強くなっていったが、シンジは咎めることなく、しばらくの間そのままアスカのしたいようにさせていた。
いつまでもアスカのそばにいては何もできない。アスカのために様々な家事をするためにシンジがゆっくりとアスカから手を離すと、それまで強い力で彼の手を握っていたアスカの手は素直に離され、彼女の胸の前で合わされた。
「朝ごはん、おかゆにするね。すぐに戻ってくるから、ちゃんと寝てるんだよ?」
そういってシンジは立ち上がってふすまのほうへ歩き出し、小さくトン、という音を立てて引き戸を閉じる。アスカだけが残された部屋には静寂が満ちているようだったが、ベッドでうずくまる少女の耳には、扉を抜けてかすかに聞こえてくるアブラゼミの出す五月蠅い声がくっきりと聞こえていた。熱で思うように動かない体を、ゆっくりと丸めて耳をふさいで、アスカは誰にも聞こえない声で叫んだ。
「……しぬのはいやぁ……」
アスカが体調を崩すのはさして珍しいことではない。エヴァから離れた〝普通の生活〟に少しずつ適応していくにつれて気力で保っていた体調が崩れるようになっていったのだ。張り詰めていた糸が切れたかのように、という言葉が正しいだろう。端的に言えば、アスカの看病をすることも、シンジにはなれたものということだ。
アスカの部屋を離れたシンジは、まっすぐにキッチンへと向かう。炊き立てのご飯がよそられた茶碗は、既に冷たくなっている。シンジは二つ並んだ茶碗の中から少し小さめの茶碗を選んで手に取って盛られた白米を小さめの鍋にいれ、水を入れてコンロにかけた。そして、思い出したかのように冷蔵庫のドアを開けて中から卵を取り出し、シンクの角で殻を割ってボウルに落とす。卵の殻はシンクの端に設置された三角コーナーへと放り投げて、手早くボウルの中の卵をかき混ぜる。少量を鍋に注ぎ入れてから、ガスコンロのスイッチを入れた。チチチチチチッという音の後に、青い炎が正八角形の形に立つ。熱せられた鍋にはいった白米を、底に焦げ付かないように慣れた手つきで木べらを使ってかき混ぜる。10分ほど鍋をかき混ぜ続けて、即席のおかゆが出来上がった。
「少しご飯の量が少なかったかな?」
鍋に入ったおかゆの色は、おかゆというにしては少し黄色が強い。白米の分量に対して卵一つは少し多かったようだが、どちらかというとアスカは卵が多いほうが好きであることを、シンジは経験から知っている。そのまま茶碗に移し替えて、漬物を添えてお盆に乗せて、アスカの部屋へ向かった。
シンジがアスカの部屋を開けると、少しずつ気温が上がってきた廊下と比べて涼やかな空気が足元を駆け抜けていく。タオルケットにくるまったアスカの背中から目を切って、シンジは手に持ったおかゆをこぼさないように慎重に扉を閉めた。パタン、という小さな音に反応して、アスカの小さな背中がピクリと動く。
「アスカ、朝ごはんにおかゆ作ったから持ってきたよ」
お盆ごとベッドサイドボードへおいて、背中を向けたアスカの肩を優しく揺らすと、彼女はゆっくりと丸めた体を開いて赤くなった頬と腫れた瞼をシンジへ向けた。無理に顔だけシンジのほうへ向けたせいでねじれた体をまっすぐに直しながら、アスカはシンジのほうへ手を伸ばしてエプロンの裾をつかんだ。弱弱しいながらもシンジを引き寄せ、ひしと抱き着いて肩を震わせはじめたアスカの頭を優しく撫でながら、シンジはいった。
「大丈夫だよ。アスカは一人じゃないから。ほら、おかゆ食べるよ、体起こして」
「……ん」
熱が出たアスカは、普段と比較して素直である。シンジがそういってアスカの背中に枕を入れて体を起こしやすくすると、従順に体を預けてこくりと頷いた。それを見てからシンジはゆっくりとアスカから手を放し、左手に茶碗を、右手にスプーンをとってアスカのそばに跪いた。茶碗に盛られたおかゆをスプーンですくって、アスカの口元へと運んでいく。雛鳥が親鳥から食餌を受け取るように、丁寧にゆっくりとした動作で、少しずつ冷めていく卵入りのおかゆが茶碗から減っていった。一口ごとにゆっくりと咀嚼し嚥下するアスカに合わせたペースで、シンジもスプーンを差し出していく。クーラーの低いブーンという音に、一定の間隔でなるスプーンのカチャンという音、そしてその間に満たされる静寂。全てを受け入れるような、しかし誰一人として割りいることを許さない空間だった。
時間をかけておかゆを食べきったアスカは、そのままゆっくりとベッドに体を横たえて、まだ熱のひかない体を丸めて寝息を立て始めた。聞こえていないだろうと思いながらも、声をかけた。
「後で冷やしたタオルとかを持ってくるよ。先に洗濯ものを済ませてくるね」
音をたてないようにゆっくりと持ち物を回収し、シンジはアスカの部屋を後にする。リビングへ戻ると、洗濯機がやかましい電子音を鳴り響かせて回転をやめており、食卓に乗った白米は冷えて硬くなっていた。ほんの少しだけじっとそれらの状況を立ち尽くして受け止めたのちに、シンジはアスカ用の空になった茶碗をシンクへいれた。静かな部屋に、食器を洗う水音が響いている。気づけば窓を突き破るようにして、無神経な蝉の声が静寂の代わりに部屋へ満たされていた。
家主もいない、同居人も寝ている。とても静かな室内で、シンジは淡々と家事をこなしていく。終了通知のアラームが切れたドラム缶洗濯機の蓋を開けて中にためられた洗濯物を籠に移し、脇に置いておいた残りの洗い物を交換で洗濯機へ入れた。粉末洗剤を入れて今日二度目の洗濯機を動かしはじめた。いっぱいになった籠を抱えてベランダに出ると、洗濯物がよく乾きそうな日差しがシンジを出迎えた。籠を室外機の上に乗せて、右手で傘を作りながら空を見ると、雲一つない貝瀬だった。先ほどから五月蠅いほどではないが蝉が鳴き始め、日差しも高くなってきているうえ、今日はとても暑くなりそうだと素人目にもわかる。暑さが厳しくなる前に仕事を済ませようと、物干しざおをおろしながら滲み始めた汗をシンジは拭った。
一通り洗濯物を干し終わって、汗をぬぐいながら部屋へ戻ったシンジは、旅行明けに一日ゆっくりできる日を設けておいて良かった、とつくづく感じていた。頻繁に体調を崩すようになったアスカにとって旅行という行事はリフレッシュになると同時に、体力を大きく消耗させてしまうことは明らかだった為、一日でも長く旅行を楽しみたいというアスカをミサトと一緒にどうにかなだめすかした日が懐かしい。
そんなことを考えながら、洗濯物を干し終わった。リビングで先に体温計を回収してから、空になった籠を洗濯機の傍に戻した後、棚から残っていたタオルを三枚用意する。お風呂で使っていた桶を取り出して、冷水をはる。ひとまずの準備が整ったことを確認してから、シンジは桶ごと抱えてアスカの部屋へと足をすすめた。
シンジが出ていった自室で、アスカの体温は少しずつ高くなっていく。けだるさとべたつく体に目を覚ましたアスカは口で荒く息をしており、明らかに体温は上がっている。入眠も熱による体力の低下によるものならば、覚醒も熱による体温の上昇によるものだった。
丸めた体を伸ばしながら振り返ると、アスカの眼には先ほど部屋から出ていったはずのシンジが移りこんでいた。朦朧としながら、アスカは幻想へと手を伸ばす。その手が触れそうになった瞬間、虚像は消え去り、部屋に一人しかいない現実が突きつけられた。浮かせた体をもう一度ベッドへと横たえ、伸ばした手からそのままだらりと力を抜いた。
「お願い、一人に、しないでぇ……」
シンジが冷水とタオルをもってアスカの部屋を開けると、部屋は変わらず薄暗かったが、先ほどまでベッドの上で丸まっていたはずのアスカが身を乗り出して体をだらりと縁からおろしていた。慌てて桶をその場に下して、アスカのもとへ駆け寄った。
「ちょっとアスカ、大丈夫? ほら、そんな恰好じゃ休まらないよ」
「シンジ……?」
アスカの脇に手を入れ、体を起こしながら顔を覗くと、明らかに朝よりも赤くなっている。ゆっくりとベッドに彼女の体を横たえると、シンジは手早くアスカの額に右手を添えて熱を確かめると、先ほどよりも少し体温が高くなっていることが確認できた。ポケットにしまってあった体温計を口にくわえさせてから、シンジは冷水タオルを用意する。ぬるくなり始めた桶の水に持ってきたタオルのうち一本を浸してから水を絞る。ちょうどいい大きさにおってからアスカのおでこに載せた。しばらくして、軽快な電子音が体温計から鳴り響いた。ティッシュを当てながらアスカの口から体温計の先を取り出して拭きとる。小さなディスプレイに移る角ばった数字は、37度8分を示していた。
「結構高いな……。すぐに解熱剤を持ってくるよ、ちょっと待ってて」
すぐさま命に危険があるわけではないが、想像よりも高い熱に顔をしかめたシンジは、薬と飲み物をとりに行くために立ち上がろうとすると、ものすごい力で腕を引かれてアスカの上に覆いかぶさるように倒れてしまった。驚いてアスカを見ると、熱でうなされながらシンジの腕に指を食い込ませながらしがみついてきていた。
「アスカ?」
「……やだ……おねがい……ひとりにしないでぇ……」
気の利いたセリフなど、シンジには浮かばない。ただ、アスカに負担がかからないように、ベッドのわきに座りながらアスカの好きなようにさせる。それが、長い間そばに居続けたアスカへの、シンジなりのケアだった。
「大丈夫、アスカ。僕はどこにも行かないよ。ずっと君のそばにいる。」
〝そばにいる〟。その言葉に反応して、アスカの力が徐々に緩んでいく。そのすきにシンジがアスカを抱えなおすと、アスカはシンジの背中にゆっくりと両手を回した。
「一人にはしないから。大丈夫、大丈夫だよ、アスカ」
「うん……」
本来の目的を果たせないまま、しばらくの間シンジはアスカにされるがまま、そっと抱き寄せるだけだった。
あらわになった白く細い背中を、水で濡らしたタオルで拭っていく。恋人でもないシンジの穏やかな手つきをアスカが許容したのはいつのころからだったか、体調を崩しがちなアスカを傍で献身的に看病するシンジがアスカの汗ばんだ背中を拭うのが習慣となっていた。
「アスカ、終わったよ」
背中を拭き終えたシンジがタオルを桶水に浸け直しながらアスカに声をかけると、彼女はゆっくりとシャツを下して再びベッドに寝転んだ。いまだに体温が下がる気配がないが、意識は幾分かはっきりしているようだった。横になっているアスカの額に絞りなおしたタオルを当てて話しかける。
「やっぱり、旅行の予定を一日短くして正解だったでしょ?」
「……ん」
静かにアスカが返事を返すと、シンジはゆっくりと彼女の頭をなでてから桶をもって立ち上がった。
「洗濯物を干してくるね。それが終わったらすぐに戻ってくるよ」
「……ほんと?」
「うん、大丈夫」
不安げなアスカをなだめるよう伝えてから体を覆うようにタオルケットをかけ、タンスから出した毛布もそこに重ねる。そっと立ち上がり静かに部屋のふすまをを開け、アスカを振り返って穏やかな笑みを向けてからシンジはそっと部屋から出ていった。あとに残されたアスカは、ぼんやりとその姿を見届けてから、ゆっくりと瞼を閉じて眠りについた。
気づけば1時間ほどアスカの部屋にいたのか、洗濯機の様子を覗くと既に乾燥も含めて終わっていた。用意しておいた籠の中に洗濯物を入れて、ベランダへと持っていく。先ほどよりも強くなった日差しによって、シンジの額には大粒の汗が浮かび始めたが、彼はそれを気にも留めずに手早く干し切った。ごく短時間の間しか日を浴びていないのにもかかわらず、シンジのTシャツの背中には汗が染みを作り出していて、また洗濯物が増えちゃうな、と苦笑いしながらTシャツと短パンを脱いで洗濯機の中に入れた。
一度自分の部屋に戻ったシンジは、タンスからパンツを含む全身の着替えをとタオルを用意してシャワーを浴びに浴室に向かう。脱衣所でパンツまで脱いで、冷水シャワーを頭から浴びる。換気扇の音が響くバスルームに、水の滴る音がほんの少しだけ重なった。
シンジが出ていった部屋で、アスカは一人天井を見つめていた。額にのったタオルからすでに冷気は失われ、ぬるくなって張り付いている。高い体温によって体力が奪われながら、一息にタオルを床に投げつける。しばらくそのままだらりと体を横たえていたが、時間とともに体温がさらに上がってきたのか体中を悪寒が駆け巡り、タオルケットを掻き抱きながら再び体を丸めた。いつの間にか毛布はベッドの下へと落ちてしまっている。目を閉じてじっと耐えているアスカの朦朧とした意識の外から、かすかなシャワーの水音が聞こえた。その音が止んで、足音が自分の部屋へと戻ってくるのを心待ちにしながら、アスカはゆっくりと意識を手放したのだった。
浴室から出たシンジは棚からバスタオルを取り出すと、そのままガシガシと髪の毛から水分をふき取る。手早く体全体を吹き終えて汗をかかないうちにさっと着替えてしまった。そのまま、蒸し暑くなってきた室内をダイニングへと足早に向かう。食べ損ねた朝食のうち、サラダを冷蔵庫にしまって、白米にふりかけをまぶしてからラップで包んでおにぎりにしてしまった。ラップで包んだままのおにぎりと、コンロ下の引き出しからウェットティッシュの束から一つを取り出してポケットにしまい込み、シンジは廊下へと足を進め、自分の部屋へ入る。読みかけの小説を手に取ってから、ようやくアスカの部屋の前にたどり着いた。
シンジがアスカの部屋の引き戸を開けると、先ほどよりも大きな温度差を持った冷気が足元を駆けてゆく。外のじめっとした暑さが入り込まないうちに部屋へ入って戸を閉めてアスカのもとへ歩いた。よく見ると毛布は既に蹴落とされていて、ベッドのわきに落ちている。肝心のアスカは、薄いタオルケット一枚を胸元に抱きしめて震えている。その顔は紅潮し苦しげな息を漏らしていた。落ちてしまった毛布を拾ってそっとかけなおし、シンジはベッドに腰かけた。
「遅くなってごめんね、アスカ」
「……」
アスカから返事はない。よほど寒いのか体を震わせながら、シンジのほうをぼんやりと見つめた後に、とても体調が悪いとは思えない力で彼の腕をつかんでベッドの中に引き込んできた。
「うぁっ」
シンジの脇腹に抱き着いて、そのまま眠り始めてしまった。シンジはあきれながらも彼女にされるがまま、先ほど部屋から持ってきた小説を静かに開いた。穏やかな時間が過ぎてゆく。こうした言葉なき強引な行動は以前から彼女が体調を崩したときの常套手段だった。そしてその行動に対して、決してシンジは抵抗の意思は示したことはなかった。それは彼らの間で結ばれた、何人たりとも破ることのできない強い契約のように、常に守られてきた時間であった。
シンジの手が静かにページをめくる音と、相変わらずクーラーの低い振動音だけが部屋に響いている。彼の両手に乗っている小説の表紙は、日に焼かれて少し黄ばんでいた。いつの間にか眠りから覚めたアスカが、小説を持つ彼の手に自らの手を這わせて話しかけてきた。その顔の赤みはまだとれていない。
「ねぇ、今回は、なによんでるの?」
「今回は『星の王子さま』。もうずいぶん前に買った本だけど、最近また読み直してるんだ」
そう言ってシンジは、ベッドサイドに黄ばんだ本をおいてアスカの額に手を当てた。
「まだ熱が引かないね、解熱剤持ってこようか?」
「ううん、いらない。飲んだらもっと長引くから」
「わかったよ。その代わりつらくなったらちゃんと教えてね?」
シンジの言葉にアスカは小さく頷いて、彼の体を改めて抱きなおすと脇腹に顔をうずめながら話し始めた。
「ねぇ、シンジ」
「なに、アスカ」
「……傍にいて」
ただそれだけ言って、アスカは一層強くシンジを抱きしめる。その先を求めることはお互いにしない。しかしことあるごとにお互いの存在だけは確認する。これも一つ、彼らにとって重要で、切ない儀式だった。この言葉に対するシンジの言葉は、常に変わらない。
「大丈夫。僕は君の傍にいるよ」
その言葉に安心したように、アスカは再び眠りについた。そして、彼女の体温に誘われるようにシンジもゆっくりと意識を手放した。
「ん……」
シンジは目を覚ました。けだるい体を起こして窓のほうを見ると、カーテン越しの日差しが明らかに強烈になっている。時計を見ると短針は頂点に近く、うたた寝したつもりが既に1時間ほど経過していることを示していた。ぼんやりとした思考で、そろそろお昼ごはんを用意しようと考えながら、隣で抱き着いているアスカのほうを見やる。
「ごめんアスカ、寝ちゃってたよ……。そろそろお昼だし、一回起きよう?」
ゆっくりと頭をなでながらアスカのほうをうかがったが、まだ寝ているのかまったく動く気配がなかった。そのまま寝かせておこうかとも思ったが、妙に彼女の体温が高いことを不審に思ったシンジは彼女の体を引きはがしてその顔をみると、明らかに体温が上がっているのがわかった。頬が先ほどよりも明らかに赤く見え体はぐったりとしていた。
「アスカッ……!?」
すぐにサイドボードにおいてあった体温計を手に取り、アスカの口にくわえさせる。窓に表示された数字はぐんぐん上昇していき、ついに39度まで到達した。
「すごい熱だ……!」
シンジは震える手で体温計を安全なところへ放り投げると、アスカから体を離してすぐに自室へスマートフォンをとりに行く。しばらく寝たためか足元がふらついてしまって、寝る前から置きっぱなしだった水桶をけってひっくり返してしまったが、今のシンジにそれを気にする余裕はまるでなかった。
いつも通りの室内のはずなのに、何度も足をもつれさせそうになりながらシンジは自分の部屋の引き戸を勢い任せに開いた。視線を走らせて目的のものを探し出す。布団の上に乗っていたそれを見つけて手に取ったシンジは、部屋から出ながらポケットにそれを押し込んでリビングへ向かう。出しっぱなしにしていた薬箱から、解熱剤を取り出して反対のポケットへしまい、氷嚢を取り出してそのまま冷蔵庫へ、それを氷と水で満たしてアスカの部屋へと走った。
アスカが体調を崩すのはさして珍しいことではない。しかし、その体調が決して命に係わるほど悪化することはこれまでに一度たりともなかった。良くも悪くも、彼女の体調不良にシンジは慣れてしまっていたのだ。彼女を失うかもしれない恐怖と向き合えていたつもりだったシンジは今、アスカを失う恐怖に駆られていた。
水道のノズルの下にコップを出してシンジはレバーをひねった。水を注ぎながらふと周囲を見渡すと、椅子は倒れているし、床にはいくつも水たまりが散らばっている。普段きれいに保っている部屋を荒らしてしまうほど焦っていることに彼はまったく気づいていなかったが、事実として直視することでようやく自らが気づかないうちに感じていた焦燥感をつかむことができた。焦りが消えたわけではなかったが、それでも幾分か冷静さを取り戻したようだった。今度は落ち着いて、アスカの部屋へと歩いて向かった。
「アスカ、水持ってきたよ」
部屋の戸は開けっぱなしだったようで、中の温度は少し上昇している。入ったらすぐに閉めて温度が冷えるようにする。アスカの様子を見ると、今度はおとなしく寝ていたようで体勢は変わっていなかったが、明らかに息が先ほどよりも荒くなっている。水を飲ませるために体を起こさせようとしたが、それすらも難しいほど彼女の体はぐったりとしていた。
「アスカ、やっぱりちょっと病院に電話しよう。ネルフの病院ならきっとすぐに来てくれッ!?」
これ以上は彼女の命にかかわりかねないと感じたシンジが電話することをアスカに伝えていると、唐突にアスカがシンジの首に手をかけ顔を寄せた。そのままシンジの口にすいついたが、当然先ほどとは違ってアスカが望む水分はない。数秒すいついてから顔を離し、不思議そうな顔をした後にシンジに問いかけた。
「ね、しんじ。みずは?」
「……水だね、大丈夫。持ってきてるよ」
シンジはほんの少しの動揺を抑えて、サイドボードに手を伸ばす。先ほど飲ませるつもりだった解熱剤と一緒に水を口に含んでから、再びアスカに口づけた。
「ん、ふっ……ンぐ……」
アスカは親鳥から餌をもらう雛のように、与えられた薬も水も素直に飲み込んでいった。その両手は、今彼女が持ち得る最大の力でシンジの首に回して組まれている。先ほどよりも早いペースで、むしろシンジの口から水を吸い取ろうとするように、アスカは舌を出して水を飲む。水がなくなった後もしばらくはアスカの腕の力は緩まなかったし、シンジもそれを強引にほどこうとはしなかった。結局のところ、アスカにすべてをゆだねていた。
ようやく満足したアスカが腕を離すと、シンジはゆっくりと顔を離してゆく。唇を離すときに鳴った小さいリップ音に、ほんの少しだけ顔を赤らめながら、シンジは手首のあたりで唇をぬぐった。アスカは欲していた水分をとることができた安心からか、だらりと手をベッドに落として寝ている。しかしその顔色は悪く、額に手を当てると明らかに熱は高いままだった。シンジはポケットに入れっぱなしのスマホを手に取って連絡先の一覧を開くと、ほんの少し迷ったのち、時計を見てからミサトへと電話をかけた。1コール、2コールと呼び出し音を耳元で聞く。しばらく待って、7コール目でようやく通話がつながった。
「もしもし、ミサトさん?」
『ごめんシンちゃん、今会議中だからちょーっち後にしてもらえるかな?』
そういって電話を切ろうとするミサトに、大慌てでシンジは要件を伝える。
「アスカの熱がひどいんです。ネルフ付属病院に回してもらえませんか」
その言葉に、ミサとの声が真剣なものへと変わる。
『……今何度?』
「さっき測った時は39度でした。たぶん、まだ上がり続けてます」
通話越しに小さく息をのむ声が聞こえてから、ミサトはシンジが求める答えを返してきた。
『わかったわ。すぐに救急車を向かわせるから、準備しておいて』
「はい!」
シンジの返事を聞いてから、プツリと通話が切れた。
アスカの体調は芳しくない。シンジがミサトに電話してから30分ほど経つが、その間にもアスカの体調が快方に向かうことがなかった。彼女の首筋に置いた氷嚢を一度交換して、冷やした水タオルで顔を拭いてやり、水を欲しがるアスカのために何度もキッチンとアスカの部屋を往復する。地道な作業をシンジはひたすら繰り返していた。
「アスカ、大丈夫だよ。そろそろ救急車が来てくれるから」
ぐったりとするアスカを励ましながら、じっと待つしかなかったが、救急車は早く来ないかと焦る気持ちが湧いてくる。
「しんじ、みず、ちょーだい……」
「ん……」
アスカが水を求める頻度も増している。求められるたびに何とか自力でコップから飲めないかシンジは試行錯誤していたが、結局のところ口移し以外に飲ませる方法は見つからなかった。返事をする前からコップの水を口に含んで、アスカに重なって水を送っていく。
「ね、もっと、みず」
「ちょっと待ってて、とってくるから」
「うん……」
水を取りに行くついでに、氷嚢の中身を取り換えるべくアスカの首に当ててあるそれを手に取る。少し揺らしてみるとまだ氷は残っていたが、アスカの首に当たっていた部分はぬるいどころか体温と同じぐらい熱くなっていた。
「ミサトさん……早く来てくれないかな……」
キッチンでコップに水を入れて氷嚢の中身を流す。水を入れて冷蔵庫から氷を取り出そうとすると、もう残りの氷はごくわずか、この一回の入れ替えが最後になりそうだった。おさまりかけた焦りが、再びシンジを徐々に覆ってゆく。
部屋へ戻って、水を口に大きく含む。
「んくっ……ん……」
氷嚢をアスカの首筋に当て直した後、アスカに口付けて水を注ぎ込む。氷も残り僅か、体調も良くならない。発熱だけとはいえ、明らかに身体に異常をきたしているアスカを前に、シンジの焦りは深まる。口に含んだ水を全てアスカに移し終わったシンジが顔を上げようとしたとき、待ち望んだインターホンの音がなった。
「ッ! アスカ、救急車が来たよ!」
安堵から、叫ぶようにしてシンジはアスカに呼びかけた。体を起こして救急隊員たちを迎えるために玄関へ向かおうとアスカの部屋を出ようとすると、同じタイミングで外側から戸があけられ、シンジはびくりと体を震わせた。
「シンジくんっ! アスカっ!」
引き戸の向こうからやってきたのは、先ほどまで会議に出席していたはずのミサトだった。額には汗が滴り、シャツは濡れて体に張り付いている。急いで帰ってきたのがよくわかった。
「ミサトさん、会議してたんじゃ……?」
「どのみち終わりかけだったから、すぐに切り上げてきたわ。とにかくすぐに準備して。車にのっけて病院まで連れていくわ」
こくりと頷いて、シンジはアスカへ振り返った。ぐったりするアスカの体は宿主の制御を失って非常に重たく感じるが、シンジは強引に膝と首の裏に手を差し入れ持ち上げる。
「アスカ、今から病院行くからね」
ぎゅっとアスカを抱きかかえてシンジがささやくと、ミサトが急かすように声をかけてきた。
「治療室はこじ開けさせたから、すぐに対応してもらえるはずよ」
「ありがとうございます、ミサトさん」
病院の都合を無理やり開けさせる。そんなことは本来まかり通らないはずだが、それを実際に実現させてくれた。そんなミサトの行動にシンジは心から感謝した。
「すいません、キッチンの下の棚から水筒を用意してもらえませんか?」
アスカを腕に抱き上げ玄関に向かいながら、シンジはミサトに頼んだ。
「わかったわ。シンジくんのでいいわね?」
「いえ、アスカのものにしてください。乗ってる間にアスカが欲しがるでしょうから」
青いMAZDA3が街を走り抜けていく。あくまでも法定速度を守りつつ事故を起こさぬように慎重になりながらも、ハンドルさばきは荒っぽい。
大通りに出て、あとはネルフ施設まで一直線になったところで、ミサトはバックミラー越しに子供たちの様子を確認すると、ちょうどシンジがアスカに水を飲ませているところだった。
(いつもながらほほえましいわね。……いえ、痛々しいというべきかしら)
彼らにとってサードインパクトは、二人を結び付けあう絆でもあり、同時に二人を決して結ばない呪いなのか。それだけ彼らの心に強い楔が穿たれていることを、ミサトは何度も痛感させられていた。
「あと5分で到着するわ。担架を手配してあるから、すぐに移せるようにしておいて」
「わかりました。ありがとうございます、ミサトさん」
「いいのよ。あなただけじゃないもの」
そこで言葉を切ってミラーから視線を前に戻しながら、ミサトは心の中でつぶやいた。
(あなたたちを守りたいのは)
お互いに心の内を読み取れたわけではないが、シンジはミサトの内心を慮って心のうちで感謝した。バックミラー越しに見るミサトの眼は鋭く前に向けられていた。エンジン音が高まり車速が上がっていく。並走していたトラックを抜き去ってミサトたちは病院へと走った。
昼間の車どおりが多い時間帯から外れた道は車の影もまばらで、運送トラックの間を縫うようにして5分もたたずにネルフ本部施設に到着した。付属の病院へ向かうカートレインへと車体を乗せて、ミサトはようやく肩の力を抜いてため息をついた。背もたれに一度体重をかけてから、後部座席へと振り返る。この後の行動を指示するためだった。
「カートレインにまで来れたから後10分ほどで病院に入れるわ。すぐに病室まで連れて行けるように……できてるわね」
後部座席ではシンジがアスカの体を動かしやすいように横抱きにしており、緊張した面持ちでじっとミサトのほうを見ていた。
「大丈夫です。すぐに移動できます」
「ん、わかったわ」
そういって体勢を正して、ミサトがシートに体を沈めるとガタンと大きく揺れてカートレインが動き出した。静寂から一転、機械の低い振動音が車内を満たし始める。地下3階へ降下し、その後水平に移動し始める。
「アスカ、そろそろ病院につくからね」
横抱きにしたアスカを抱きしめながら、シンジはその耳元でささやく。辛そうに呼吸をするアスカから返事はなかったが、シンジはただただアスカを抱きしめ続けていた。その様子をバックミラー越しに見つめながら、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。
「……準備、出来てるかしら。そう、5番ゲートから入るからそこに担架を引っ張て来ておいて」
『既に手配してあります、ご心配なく。集中治療室にアスカさんを収容次第シンジくんに対して問診したいのですが、かまいませんね?』
「えぇ、大丈夫のはずよ。それじゃあ、あとはよろしく頼むわ」
通話を切ったタイミングで水平移動が終わり、今度はトレインが上昇し始めた。電話をポケットに押し込みながら後部座席のシンジに声をかける。
「シンジくん、アスカが治療室に入ったらあなたに問診があるみたいだから、そのつもりでいておいてね」
「……えぇ、わかってます」
バックミラーのミサトにしっかりと視線を合わせて、真剣な顔をしながらシンジは答えた。
アスカの意識は、熱によって朦朧としていた。首の筋肉は凝り固まりその動きは鈍く、ほんの少しの揺れでも脳が揺さぶられて頭痛が走る。ほんの少し体を動かそうものなら体中の筋肉が悲鳴を上げ、服背筋全体が筋肉痛のような痛みを発した。胸筋もうまく動いておらず酸素を求めて大きく呼吸をしようとすると肋骨のあたりに妙な圧迫感さえあった。
「みず、ちょーだい」
「ん」
一つ声をかければ、すぐに頭上から返事が返ってきて、開いた口へと冷たい水が注ぎ込まれていく。薄い唇を通じて触れる体温と冷たい流れに、アスカはほんの少しの癒しを受け、脱力して体を横たえた。
ぐったりと預けた背中には、シンジの骨ばった背中を感じている。出会ってから数か月間。一番つらい時期を共に過ごした少年は、子供の陰りを捨てはらい大人のにおいをまとった青年になっていた。その穏やかな空気に誘われ、時間の感覚も薄れたまま、アスカはじっと自らを覆う優しさに包まれていた。
体をむしばむ高熱はそのまま、彼女の精神を侵食していた。アスカの中で現実と幻想の区別が消失していく。自らが組み立てた全ての意識が熱により分解される強烈な無力感に対して怒ったが、怒りの対象も原因も本人にはわからなかった。
ふとすると、外敵から守るように自分を包んでいた温かいさみしさがなくなったことに気づいた。不安になって首を回すと、いつの間にか周囲を誰かに囲まれている。
(だれ……?)
ゆっくりと手を伸ばすと、その人物はそっとその手を取って顔を寄せてきた。輪郭のハッキリとしないそれは近づくにつれて形をハッキリと変え、目の前に寄った時、あの忌々しいぱっくりと裂けた赤い唇がアスカの視界を覆っていた。
集中治療室の前まで来てから、医師と話をするためにシンジは隣の部屋へと入っていった。一人残されたミサトは、立ったり座ったり、落ち着きなく動き続けている。
「アスカ……」
扉の向こう側で治療を受けている妹のような少女の名前をミサトがぽつりと呟いたとき、唐突に治療室が騒がしくなり始めた。かすかに叫び声まで聞こえてきた。ミサトが不審に思って立ち上がった瞬間、治療室のスライドドアを強引にへし折って誰かが飛び出てきた。
「アスカ?!」
転がるように出てきたアスカはミサトの脇をすり抜けて廊下の端まで飛ぶように駆けて行った。勢いそのままに壁にぶつかってぐったりと倒れた彼女に、ミサトは慌てて駆け寄った。ゆっくりと体を起こすアスカのそばによって肩にそっと手を回そうとしたとき、獰猛な鋭い視線に射抜かれて身がすくんでしまった。
「ウゥゥゥ……!!」
ミサトがひるんだ瞬間を逃さず、アスカはとても先ほどまで高熱にうなされていたとは思えないほどの力を発揮して彼女を突き飛ばした。
「キャァ!」
小さく悲鳴を上げたミサトになど目もくれず、敵意をむき出しにしたアスカは低くうなりなが自分で体を抱いて廊下の隅を陣取ってしまった。
「惣流さん! ……彼女を治療室へ!」
後ろから追いかけてきた医師たちがアスカを連れ戻そうと近寄るが、近づこうとした看護師たちはことごとく突き飛ばされてしまった。唸り声を隠そうともせずに手当たり次第に手を振り回してアスカは叫び続けた。
「殺してやるころしてやるコロシテヤル……!」
「アスカ、落ち着いてッ!」
ミサトが呼びかけてもまるで効果はなくアスカが聞き入れる様子はなかった。その時、大きな音とともに診療室のドアが開き、シンジが飛び出してきた。
「アスカッ!!!」
「ちょっと、碇さん! まだ終わってませんって!」
アスカを囲んで右往左往していた看護師たちをかき分けて、シンジはまっすぐにアスカのもとへと走った。あっけにとられて突き飛ばされた看護師たちの目の前で、シンジはアスカに迷うことなく近づいていく。そしてついに、何人{なんぴと}にも侵されざるアスカの領域へと割って入ってしまった。
「シンジくん……」
自分を助けるための看護師たちも、ミサトすらも許さないアスカの領域へと平然と足を踏み入れるシンジを見て、ミサトは彼らの絆を強く感じ入っていた。しかし、本質は少しだけミサトの想像とは違っていた。シンジはアスカの刃圏にはいるとき、平然とはしていなかった。複雑に絡み合った焦りと、彼女への尊重の意思を強く持っていた。当然、アスカはそれを理解していたし、シンジもアスカが理解してくれることを心のどこかでわかっていた。手負いの獣が持つ強烈なプライドを、この中でただ一人シンジだけが理解していたのだった。
アスカの心をゆっくりと割り開き、そっとその肩を抱いてシンジはささやいた。
「大丈夫だから」
「シン、ジ……」
「大丈夫。大丈夫だよ」
「……ふ、ん……ふぇ……んぐ……」
その言葉で、恐怖で心を閉じ込めていたアスカが、幼い足取りで戻ってきた。自らを覆い守護する青年の体にそっと腕を回し、蒼い瞳にはうっすらと涙が滲みだし、彼女は静かにすすり泣き始めた。そんな彼女の背中を、シンジはそっとなで続けた。
ほんの少しの間、けれどゆったりとした落ち着いた時間のあと、シンジは無言でアスカの手を引いて廊下を歩き始めた。誰一人として、その穏やかな光景を引き留めることはできなかった。
集中治療室の前の廊下は薄暗い。壁沿いに並んだパイプ椅子に一人、まるで影のようにシンジは座っていた。その年頃の青年にしては長い髪がうなだれた横顔を覆い隠し表情を読むことはできない。
「シンジくん、そろそろ帰るわよ。アスカが心配なのもわかるけど」
「えぇ、わかってます。……帰りましょうか」
重力に逆らうように前かがみに体を倒して、太ももの筋肉が張って青年の体を椅子からゆっくりと持ち上げた。ぐらり、とほんの少しだけふらついてから頭を振って額に手を付ける。
「すいません、ちょっと立ち眩みしちゃって」 「……いいのよ。大丈夫?」
「えぇ、これくらいなんともないですから」
歩き始めて数歩の間はまだふらふらとしていたが、すぐにすっと背筋を伸ばして歩き始めたシンジの背中にすさんだものが感じ取れた。いったいどんな思いを胸にしまい込んでいるのか、ミサトにはとても想像はつかなかった。カートレインが車を運んでくる間、二人の間には重々しい雰囲気が流れていた。沈黙に耐えられなくなったミサトが会話を切り出そうと隣を振り返ると、こちらを向いていたシンジと目が合った。
「……ミサトさん、晩御飯何にしましょうか。途中でスーパー寄ってもいいですか」
「え、えぇ。大丈夫よ」
「沖縄で買ってきたものもありますけど、出来ればアスカが帰ってきた時に取っておきたいので」
先に食べたらアスカが怒っちゃいますから、とシンジは苦笑いを浮かべた。ほんの少し自分よりも背丈が高くなった青年に言葉をなくして、ミサトはそれ以上何も言えなくなってしまった。
広い国道は雨に濡れていた。
(まるで今のあたしたちの気持ちみたいね)
そんなことをミサトは心の中でつぶやく。予報外れの雨に追われて走る人が、窓越しの町のそこかしこに移っていた。
車内スピーカーから流れる雨だれの響きが、先ほどから二人に間に沈黙を呼んでいた。浄化された赤い海からミサトが帰ってきて以来、ミサトと二人のチルドレンの間にはたびたび似たような静寂が流れることがあったが、今回も同じだった。どうやら、シンジとアスカには誰にも許さない領域があるらしかった。彼らは成長するにつれて、むしろそれまで凝り固まってしまったモノを解していくかのように互いに寛容になっていったが、同時にそういった、誰にも許さない二人だけが持つ領域があるらしいことをミサトはようやくつかみつつある。
「ミサトさん、そろそろ右に曲がっておきましょう。この先で渋滞があるみたいです」
思考の海に沈みかけたミサトにシンジが声をかけた。はっと顔を上げてカーナビを確認すると、確かに渋滞情報が流れている。一つ手前の道で曲がってしまったほうがよさそうだった。
「そうね。ありがとう、シンジくん」
そういって笑いかけると同じように微笑んでくれるが、ひとたび会話が終われば再びすました表情をして自分の世界へと戻ってしまった。
(あたしじゃどうしようもできないのね)
たびたび感じる無力感をミサトは今回も甘んじて受け入れた。
スーパーマーケットで買い込んだ物が、ビニール袋の中で揺れてこすれるカサカサという音がなっている。エレベータが目的の階への到着を知らせて、ポーンという軽快な音を鳴らした。
「ミサトさん、僕が荷物預かるので先に部屋の鍵を開けておいてください」
「えぇ、わかったわ。それじゃあ、これお願いね」
ミサトは手に持っていたビニール袋をシンジに預けると、早歩きで部屋へと向かった。カードキーをかざして玄関を解錠し、開けたまま後からやってくるシンジを待つ。二人そろって室内に入って電機を付け、ダイニングへと入る。昼間シンジが慌てて倒した椅子がそのままになっているのを見て、改めて自分の慌てぶりを彼は認識したようだった。
「シンちゃん、今日はレトルトで済ませましょ。すぐに済ませられるし」
シンジが机に乗せたビニール袋から順に食材を冷蔵庫へと映しながらミサトは言った。数本のビール、箱入りのアイスなど、すぐに入れる必要があるものを優先して投入する。しばらく作業しているうちに、シンジからの返事も彼の気配すらも感じられないことに気づいたミサトは腰を伸ばして振り返ると、リビングからベランダを眺めているシンジを見つけた。視線の先で雨に濡れる洗濯物が、少しだけ荒れた風にはためいていた。
「シンジくん……?」
「……ぁあ、ちょっとぼーっとしちゃってました。すぐ、取り込みますね」
声の出だしがかすれて小さくなってしまったが、すぐにシンジは我に返ってベランダに干してあるものを次々と取り込んでいった。
「服、洗い直しですね。ミサトさんのも何着か入りっぱなしでした」
「いいのよ、気にしないで。それよりもほら、今沸かし始めたからまだ先になるけど、お風呂入ってきなさい。風邪ひきたくないでしょ、アスカにまた怒られるわよ?」
「そう、ですね。とりあえず服をまとめ切っちゃいます」
アスカの名前に反応して少しだけ体を震わせたが、すぐにシンジは明るい顔に戻って作業をし、コーヒーを入れるミサトに、少し部屋にいますね、と声をかけて廊下へと歩いて行った。ベランダの外では、相変わらず強い雨が続いていた。
壁掛けのスイッチが軽快な音声で風呂が沸いた事を伝える。卓上のコーヒーメーカーがぽつりぽつりと黒く濃縮された飲み物を作っている間にかなりの時間がたっているようだった。心なしか窓をたたく雨風も弱まったように感じられた。いつまでたっても自室から出てこないシンジが心配になって、ミサトは淹れたてコーヒーの入ったマグカップを2つ、木のお盆に載せて廊下を歩いた。
シンジの部屋の引き戸をノックすると、中から特に返事はなかった。ミサトがそっと戸を開けると、暗い室内で冷たい服のままへたり込んだシンジが戸の隙間から入る光に照らされた。
「シンジくん、入るわね」
シンジの部屋には極端に物が少なかった。それは、5年前の彼の場合諦めからくる無趣味であったが、今の彼にとってはまた別の意味を持つに違いなかった。しかし、例え何か理由があるにしても、年頃の大学生にしては物が少なすぎることに変わりはなく、ミサトは常々気にかけている。お盆ごとマグカップを置いた机も、ポスターも、写真の一枚も飾られていない。最低限の教科書とノート、筆記具が転がっているだけだった。そっとシンジの隣に腰を下ろし肩に手をおいて、ミサトが静かに話しかけた。
「どうして、着替えないの? 本当に風邪ひいちゃうわよ?」
「ミサトさん……?」
「アスカが、心配?」
猫背のまま首だけ伸ばしてミサトを一瞥した後、シンジは少し困ったように目を細めてゆっくりと立ち上がった。ミサトに机の椅子を差し出してそっとベッドに腰かけた。促されるままに椅子に座り、マグカップを手に取ってシンジに渡した。ありがとうございます、と小さくお礼を言って、二人そろってコーヒーに口をつけた。湯気を立てた温かい黒い飲み物は、ほんの少しの酸味を伴ってのどを通り、冷えた体を少しずつ溶かしていった。
「ミサトさん、絆ってなんだと思いますか?」
すっと差し込むようにシンジが語り始めた。
「人と人とのかかわりって、なんなんでしょうか」
「シンジくん?」
少なくなったコーヒーに映る自分の顔を眺めながら、静かにシンジは続けた。ミサトは普段感じることのない彼の雰囲気に違和感を覚えたが、それをもってシンジの言葉を遮ろうとは思わなかった。
「絆って、人と人との間にできるものですよね。僕とミサトさんの間にも、アスカとミサトさんの間にもそれぞれの絆がある」
そっと顔をあげたシンジの雨に濡れた前髪の間から視線が合う。目線で続きを促すと、シンジは少しだけ口角を上げて一口コーヒーを飲んだ。
「僕にとってアスカは大切な人です。出会ってから、どれほど彼女を傷つけてしまったか、どれほど失望させたか計り知れないけれど、それでも僕とアスカの絆は他人のそれとは特別に違う物だと思ってます」
コーヒーを飲む気がなくなったのか、シンジは机の上にマグカップを戻した。その掌に穿たれた聖痕は、年月が経とうとも消えていない。ミサトがその手に目をやったのを、シンジは敏感に察知した。すぐに手を握りこんで隠した。ほんの少しの気まずさを隠すように体の前で手を抱いてシンジは続きを話した。
「〝あの時〟、心の傷をえぐりあって、お互いに命さえ奪おうとした。きっと、これまでもこの先も、僕たち以上にお互いの心を暴きあった二人はいないでしょうね」
ミサトは頷いた。
「でも、だからこそ、僕はその距離感に甘えていたんです」
「甘え?」
「そう、甘えです。アスカと僕とは、この先もずっと一緒に生きていくものだと思い込んでたんです。お互いにわかっているのに、わかっていないふりをしながら。心のどこかでつながったまま、言葉の一つも伝えないままで。そう、二匹のヤマアラシが見つけた〝互いを傷つけない距離感〟に甘えてたんです。だから一度もらったチャンスを神様に取り上げられそうになったんですよ」
吐き出すように言い切った後で、背中を丸めてシンジは静かに泣きだした。言葉の勢いにミサトは圧倒されてしまったが、背中を震わせるシンジを見てその心境を思い、傍へ寄ってその体を抱きしめた。
「ミサトさん……僕は、怖い。こわいんです。あすかをうしなってしまうことがッ……こわいんです……」
少年の本音に、姉は抱擁で答えた。涙の音が、部屋にこだまし続けた。
しばらくして、枯れた声でシンジが再び続けた。
「アスカとずっと一緒にいると思い込んでたんです。彼女もそのつもりだって思ってた。こんな風に終わってしまうかもしれないなんて考えもしてないんです。ただ、お互いに伝えずにいることが、こんなにも怖いだなんて……はじめて気づいたんです」
その言葉を最後に窓をたたく冷たい音が、部屋を埋め尽くした。
「アスカぁ! よかった、ほんとによかったよぉ!」
良く晴れ、澄み渡った空が綺麗な日のリビングで、アスカは洞木ヒカリに抱き着かれていた。季節の変わり目は感じにくいものの、どうやら少しずつ秋が戻ってきているようで、今日の空気はいつもにも増して透き通っている。
「んもぉ~ヒカリったら! わかったからちょっと離れてってば!」
アスカが入院した。これまでにない事実に、ヒカリをはじめとして周囲の友人たちの心配はかなり大きかったようだ。退院したその日の午後にはもう葛城家に勢ぞろいしている。
「なぁ、ヒカリ。惣流も病み上がりなんやから、あんまり引っ付いたらあかんで」
「そうだよ、委員長。碇だってまだ十分に話せてないんだから」
遅れて入ってきた二人が、玄関を開けた途端アスカにしがみついたヒカリに対して呆れていた。トウジの手にはケーキの箱が二つ、ぶら下がっている。右手を挙げて箱を小さく揺らしながらトウジは二人を急かした。
「さぁ、はよ中に入ろうや。ケーキ溶けるで」
「そうね、シンジも料理作って待ってくれてるわ」
話しながら廊下を歩きリビングへ出ると、折り畳み式のちゃぶ台の上に食事が用意されていた。なかにはミサトが頼んだデリバリーピザなどもあったが、おおむねシンジの作ったから揚げやサラダ、他にも色とりどりのおかずが用意されていた。
「シンジ、ヒカリたち来たわよ」
「あぁ、ごめん、ありがとう。ちょっと手が離せなくてさ。久しぶり、みんな」
調理器具を洗っていたシンジにアスカが声をかけると、シンジは振り返って挨拶した。長い夏休みの間しばらく会っていなかったし、アスカが入院する前は二人で沖縄まで旅行に行っていたので、実際に久しぶりという言葉が彼らにとってはふさわしかった。
「お、みんな揃ったみたいね! みんな元気してた?」
奥の部屋からミサトが出てきた。普段のだらけ切った部屋着ではなく、外に出ても大丈夫な部屋着に着替えている。
「さぁ、せっかく集まったんだし、ちょっと早いけれどお昼ご飯にしましょう! それじゃぁビールを一本……あいたぁ!」
全員がそろった事を確認したところで、ミサトが意気揚々と冷蔵庫からビールを持ち出そうとするとその後頭部をアスカがぴしゃりとたたいた。
「まったくいい加減にしなさいよ! そんなことしてるとまた加持さんに愛想つかされるわよ?!」
「なによ、いいじゃない。それに加持だって別にもうそんなこと気にしてないわよ」
「そうだな、それぐらいで愛想つかすほど浅い仲じゃあないさ」
唐突に差し込まれた声にその場にいた全員がびくりと背筋を伸ばした。錆びついたおもちゃのようにゆっくりとミサトが振り返ると、少し怖い笑みを浮かべた加持がたっていた。
「か、かじくん、違うの。ちょっと魔が差しただけというか、なんというか」
「いやぁ、別にほんとに気にはしてないさ。でもこの間酒の量は減らすって約束したはずだけど、ちゃんと守れてる?」
ミサトを抱きしめるように覆いかぶさると、肩越しに冷蔵庫の中を確認しだした。
「お、なんだ守れてるじゃんか。えらいぞ、葛城」
「そのうちに我慢しきれなくなってぐびぐび飲み始めるわよ、いっつもそうだもの、ミサトは」
アスカが意地の悪い笑みを浮かべながら加持に話しかけると加持はすくっと立ち上がり振り返った。
「そういえば挨拶がまだだったな。アスカ、退院おめでとう。ずいぶん災難だったな」
「ありがとう、加持さん」
アスカからの返事に笑って答えたあと、加持は足元で顔を真っ赤にしていたミサトを抱き起こした。ミサトは何も言わずにされるがままに加持に抱き着いた。
「ほら、いつまでも座り込んでいるわけににゃあ行かないだろう? ……そうだ、君たちに会うのも随分久しぶりだな」
腰が抜けて口をパクパクさせているミサトの肩を抱いてトウジたちを加持は振り返った。トウジは笑って頭を掻きながら言った。
「いやぁ、何とか元気にやっとります。加持さんもミサトさんと仲良さそうで何より」
そういわれてミサトは真っ赤になったが、加持は何も気にすることなく小さく笑った。
「もう今更、意地張ってたって仕方ないってわかったからな。さぁ、立ち話してないで、せっかくシンジくんが作った料理が冷める前にいただこう。アスカだって、早く食べたいだろう?」
「ふぇ……? そ、そうね。早いとこ食べましょ! 病院食ずっと食べてたからおなかペコペコだもの!」
「もう用意はできるから、自由に席について、お皿に料理とっちゃってよ」
シンジが指さしながら言うと、それぞれがちゃぶ台を囲むように座った。
「シンジの料理食べんのも久しぶりやなぁ」
「あたしももうちょっと料理の練習しなくちゃ」
「ヒカリの料理は十分うまいで」
「碇ぃ! 早くしないとこいつらまた惚気だしちゃうよ」
「はははっ、いいじゃないか。若い二人が揃ったらそんなもんさ」
来客一同はそれぞれに雑談をしながら料理を取り始める。アスカもバランスよく料理を取っていく。そのうちに、少し遠くにあるから揚げを取ってもらおうと皿の近くにいたミサトに頼もうとすると、顔を真っ赤にしながら加持の皿へと甲斐甲斐しく料理持っていてとても人の話を聞いているようには見えなかった。
「バカシンジ! 早くしなさいよ! ミサトまでくねくねし始めてるわよ!」
「はいはい、わかったよ。すぐに行くから、ちょっと待ってね」
久々に訪れた平和な光景を、アスカもシンジも笑って楽しんでいた。
「ごめんね、ずいぶん長居しちゃって」
「いいのよ、あたしも会いたかったし。……あんたたちも。ありがとね」
楽しかった宴も終わり、ヒカリ、トウジ、ケンスケの3人は玄関で靴を履き替えていた。先に履き終えたヒカリがアスカと話していると、トウジとケンスケもちょうど靴を履き終えて立ち上がった。
「ほんまに災難やったなぁ。無事に済んで何よりや」
「ほんと、最初に聞いたときはびっくりしたよ。わるいな、退院してすぐに押しかけたりして。碇ともまだしっかり話せてないんだろ? 俺たちはもう帰るから、アイツもかなり心配してたし、しっかりお礼を言っとけよ」
「シンジにお礼だなんて、そんな間柄じゃないわよ」
アスカは照れたように頬を掻いた。ヒカリにはそんなアスカが微笑ましく見えた。
「そういえば、加持さんたちずいぶん遅いな。挨拶してから帰りたかったんだけど」
トウジの隣で携帯をいじっていたケンスケが顔を挙げて口を挟んできた。アスカはその話を聞いてなにか思い出したのか、苦虫をかみつぶしたかのように携帯の画面を三人に出した。
「ほら、ミサトはもう向こうで酔いつぶれて帰れないってさ。加持さんを送っていくって言いながら、結局押しかけちゃったんだから、まったく……」
ぶつぶつと文句を言い始めたアスカをなだめるように、ヒカリはそそくさと玄関ドアのボタンを押した。
「じゃ、じゃああたしたちそろそろ帰るわ。また今度、落ち着いたらどこか遊びに行きましょ。じゃあね!」
「ああ、うん。暗いから気を付けて」
ひらひらと手を振るアスカの前で、スライドドアが閉じた。
玄関から再び廊下を歩いてリビングに戻ると、既にシンクにあったたくさんの食器は片づけられ、全て棚にしまわれていた。ミサトが残した空になったいくつかの缶ビールとたたまれて壁に掛けられたちゃぶ台が、先ほどまでの騒ぎの影を残していた。視線をベランダへ向けると、ドアが開いていて夜風が流れ込んできていた。湿気を含みながらも涼しさを運んでくる。まとめられたカーテンの裾がほんの少しだけ風でたわんでいる。無表情な蛍光灯で照らされたリビング越しに、ベランダで涼んでいるシンジの後姿が見えた。欠けた月に照らされた背中は、どこかさみしさを感じさせた。
アスカはシンジに近づいていく。食事の後片付けをした後すぐに外に出たのか、まだエプロンが欠けられている。三日月が放つ月光は弱弱しく、しかし確かに青年の体に降り注いでいた。アスカはそんな背中に、どんな言葉をかけるべきかわからずにじっと後頭部を見つめることしかできないかった。まるで彼女がやってくることをわかっていたように、手すりに乗せていた体重をまっすぐに戻してさみし気な青年はゆっくりと振り返った。
「アスカ、お帰り。まだちゃんと言ってなかったよね」
「……ただいま。ありがとね、看病してくれて」
「ううん、気にしないで。僕がやりたくてやったことだから」
シンジから話しかけられると思わなかったのでほんの少し戸惑ったが、アスカは素直にシンジに礼をいった。一度口を開いてしまえば、聞きたかったこと、話したかったことが様々思い起こされた。
「あんたが書いた手紙。読んだわ」
「うん、そっか」
「送られてきた手紙の中で、あんたが一番短かったわ」
「そうかもしれない」
そういって、シンジは後ろにある手すりに体重をかけて、うつむいた。
「〝ずっと待ってる〟って。うれしかった」
「……うん。アスカをいつもいつも待たせてばかりだった。だから、今度は僕がアスカを待つ番だと思ったんだ。アスカがいつ帰ってきてもいいように、ずっと待ってた」
「そう……」
まるで告白のようなシンジの言葉に、アスカは後に続ける言葉を失った。シンジは顔を上げて、天を仰いだ。ちょうど真上に、三日月が輝いていた。
「ねぇ、アスカ。月がきれいだね」
アスカは月を見上げながら、ぽつりと返した。
「そうね。月が、きれいね」
「でもアスカのほうが綺麗だ。君のほうが輝いてる」
どくんと、心臓が高鳴った。シンジは視線を下ろしてアスカをまっすぐに見つめて傍へ歩み寄った。ほんの少しためらうそぶりを見せた後、シンジはそっとアスカの体に手を回し抱きしめた。
「アスカ、好きだ。この一歩を踏み出すのがとても怖かったけれど。僕は君と生きていきたい」
ぽろぽろと流れ始めた涙を隠すことはできなかった。静けさの中、すすり泣きの声だけがベランダを満たした。やがてその声がおさまった後、アスカはそっとシンジの背中に手を回した。二人はただ、きつく抱きしめあった。
今日の葛城家の朝は遅かった。昼頃に起きだした二人が最初に耳にしたのは五月蠅い蝉の声だった。お互いに汗が滲んだシャツをパタパタさせながらそろって洗面台に向かい、交代でシャワーを浴びて歯を磨く。身だしなみを整えてリビングに向かうと、固定電話の留守番ボタンが光っていた。二人で見合わせてからシンジがボタンを押すと、明らかに寝起きの声でミサトからの録音メッセージが再生された。
『……もしもしぃ……今起きたから夕方までには帰るわぁ……。それじゃぁ、まだちょっちねま~す……』
頬をぴくぴくさせながらそれを聞いていた二人の前で、さらに音声が続く。
『葛城。ほら、そろそろ起きろ』
『まだちょっと寝させてよぉ……。昨日の夜寝かさなかったのはあんたでしょぉ?』
『……おい、留守番切れてないぞ』
『……い、今のはなんでもな』
アスカは、見苦しい言い訳が終わる前にぴしゃっと再生を止めた。
「さ、ご飯にしましょ」
「……そうだね」
二人は分担して用意をして、遅めの朝食をとった。昨日の残りのから揚げと、冷凍庫から取り出した冷ご飯を机の上に並べて、二人でならんで手を合わせる。小さくいただきますと言ってから、箸をとった。
「……ねぇ、アスカ」
「なに?」
「これからは、ずっと一緒にいよう」
隣でアスカは薄く頬を染めて静かに頷いた。二人の間では、それで十分だった。
食事が終え、二人で洗い物を済ませたあと、互いにやることもなくリビングで座りながらテレビを見ていた。唐突にアスカが、シンジに馬乗りになって言った。
「ねぇ、シンジ」
「なに?」
「好きよ」
「……ありがとう」
「あんたがあたしのものになった。だからもう、ほかは何もいらないのよ」
「もう僕は、アスカのものだから」
「そう、それとあたしもあんたもものだから。だから……」
ずっとそばにいて